1924年11月15日 難波大助、天皇国家により処刑される。

 難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検束される

1899年11月7日1924年11月15日。

山口県熊毛郡周防村大字立野第1011番地(現・光市立野1011番地)

父難波作之進、母ロクの四男。1919年9月、東京の困窮者の住む地域を歩くようになる。

1920年2月11日、普通選挙期成大演説会に加わる。

 1921年1月『改造』掲載の論文を読み社会主義に傾倒。山川均「中産階級滅亡論」、

河上肇「断片」に共鳴。4月上野図書館で「大逆

事件」の判決を伝える新聞を読み「…その時初めてテロリストとなる事を決心したのです」と

後に供述。5月9日第2回社会主義同盟講演会に出席。1922年早稲田大学第一高等学院に合格

政経科に入学。サンジカリズムに関する書物を読みソレルに影響される。社会思想研究会で

佐野学による「共産党宣言」講義を聴く。11月同学年の歌川克己と親しくなり河上肇の「断片

」を貸すなど交流を持つ。歌川と28通の書簡を交わす。クロポトキン「革命家の思い出」を読

む。歌川から借りた麻生久「濁流に泳ぐ」の内容に打たれ、どん底生活に憧憬を抱く。1923年

2月15日、深川区富川町31番地の木賃宿「第二煙草屋」を住まいとする。築地海軍造兵廠、東

京瓦斯会社の人夫となる。5月1日第4回メーデーに歌川と共に参加。同志を検束しようとする

警官と乱闘となる。故郷に戻り父や兄弟と論争。9月1日東京駅で関東大震災に遭遇。10月4

日帰郷。「大杉栄氏等の虐殺事件、亀戸に於ける組合労働者…鮮人虐殺事件と云う様な記事を

見て種々考える所がありました」と予審で供述。11月1日父所有のステッキ銃を入手。12月

24日京都の友人岡の下宿を訪ねる。岡とロシアの政策について論争。同日頃水崎町の借家人同

盟事務所をたずね20円を差し入れる。12月26日、朝刊で27日、皇太子が貴族院へ寄ることを

知り摂政暗殺を企てる。京都府立図書館にて決行宣言の書簡と趣意書を書く。「…天皇一族の

存在は日本社会革命を遂行するに当りての最大妨害物である吾人青年共産主義者は死を決して

天皇一族鏖殺の為めに力を尽すべき事を宣言す、1923年12月27日」12月27日午前8時20分東

京駅に着き友人への葉書を投函。岡への文面は「テロにいざ立て、今日が最後の日ぞ。人間の

偉大さを知れ」9時50分東京駅構内便所でステッキ銃を準備。虎ノ門午前10時42分、皇太子

の車が北公園前を通過中顔がガラス越しに見えた瞬間、車窓から10cmの位置でステッキ銃の

引き金を引く。窓ガラスに亀裂が入るのを見届け「革命万歳!」を連呼しながら車を追う。巡

査らに抑えられる。弾丸は皇太子のすぐ後ろ、左天井隅に当たった。割れた窓ガラス片によっ

て皇太子の隣の東官侍従長が顔面に軽傷。午後5時20分、山本権兵衛内閣総辞職決定。夕刻、

号外発行。

 予審訊問は、沼義雄判事により直後の12月27日東京地方裁判所にて、第2回は

1924年1月2日、以降は1月4日、1月17日、2月14日、2月16日と市谷刑務所、2月19日は東京

地方裁判にて行われた。

 刑法73条にて起訴。1924年10月1日、2日と大審院の公判が開かれる
が傍聴人は冒頭に退廷を命ぜられ非公開とされた。11月13日大審院により死刑判決。11月

15日絞首刑に処せられる。遺体を自然児連盟の山田作松らが引き取りに行くが警視庁により検

束される。

『解放空間のアナーキスト』


80台掻革命家が回考する解放空間のアナーキスト
http://book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=5011750

 翻訳ソフトによる翻訳をそのまま掲載しています。

この本は現在韓国アナキズム運動の生き証人と呼ばれるアナーキスト李ムンチャンが 8・15 解放以後 10年の間に報告, 経験して, 学んで, 活動した韓国アナキズム運動の現場をいきいきと照明した本だ.

解放直後の 10代後半にアナキズム運動に身を投げて今までも熾烈にアナキズムの原理を実現する生に対して悩んでアナキズム運動をしている著者は韓国の 2世代アナーキストたち(解放後から活動したアナーキストたち) 中最後の走者だと言える.

彼はこの本でその間歪曲されるとか忘れたようにしたアナーキストたちを一つ一つ歴史のページで呼び出して, 解放戦後史に対する誤れた認識を直さなければならないと力説する.

革命が切実だった混乱の時期, 平凡な生をあきらめて社会運動に跳びこんだ一青年がこれから 80台になって振り返る当時の社会像を通じて '坐臥右'という二分法に選り分けられてその熾烈な悩みと行動の跡が消えた韓国アナーキストたちの面貌を細細しくうかがうことができる.

解放空間に "アナーキストがあった"
解放空間にアナーキストがあったということは事新しい話だ.
韓国現代史は '左' それとも '右'の二分法の歴史だと言っても過言ではないからだ.
解放直後韓半島だけではなく国外で活動した独立運動勢力たちが帰還しながら多様な思想傾向が共存した時代が確かにあったにもかかわらず私たちは坐臥雨着対立だけ憶える.
発行した李ムンチャン

解放政局を扱う無数に多い研究と著書たちでこの二分法を脱する場合は珍しい.
当時韓半島の重要な運動勢力あるいは政治勢力の中心に挙論される人物たちはキムク, 李承晩, 呂運亨, 朴憲永など左右翼の代表たちだ.
その中に左図, 牛島, 中途でもない, 既存の松の実どおりは説明することができない第3の思想, アナキズムの流れがあったという説明を捜してみることは易しくない.
その上に韓国アナキズム運動史を集約した 『韓国アナキズム運動史』も解放の前の活動までに紹介していて解放後のアナキズムに対する説明はない.
あれほど解放初期, すなわち韓国現代史の直接的母体になる大韓民国政府樹立時期, そして 6・25 戦争を経る時期に活動したアナーキストたちに対する照明はケチだできなくててんから捜してみることができないのだ.
しかしその時期にアナーキストたちは確かに存在した.
韓国独立運動の 3大勢力(民族主義, 共産主義, アナキズム) 中の一つであったアナキズムは解放後にもその命脈が綿綿として続いて来た.
当時アナーキストたちは自主・自治・脱権威の熱望を打ち明けて混乱政局を収まるための中枢勢力で活動した.
この本はこのようにアナーキストたちが解放後韓国社会に必須な動力を提供して活発な活動をしたという事実をいきいきと証言する.
イウルギュ, 李正規, 楡林, ユゾングリョル, 剥製頃, 朴烈, イヤー山, 以下油, 李終演, ギムヒョングユン, 梁喜石, ゾハンウング, 李圭昌, イソックギュなど幾多のアナーキストたちの名前がこの本を通じて再び光を見られるようになったのだ.
またこの本は解放後最初のアナーキスト団体である自由社会建設者連盟の '宣言'と '綱領' そして解放後最初のアナーキスト大会であるギョングナムブックアナキストデフェの '大会ステートメント' 専門を載せて解放空間での韓国アナーキストたちの理念とビジョン, 自由・自治の新しい独立国家建設に対する青写真を具体的に見せてくれる.

8・15 解放と胸にささった矢, アナキズム
アナキズムの大父プルードンが印刷工としてソーシャルライフを始めたように, 解放直前からソウル青坡洞の一ハックヤックグックで店員に働きながらソーシャルライフを始めた李ムンチャンは信託統治消息に鬱憤を堪えることができずに多くの運動団体たちをあっちこっち覗いている途中アナーキストと民族陣営の間の媒介体役目をした '無名回'という団体が分かるようになってこの時からアナキズム思想に目覚めるようになる.

アナーキスト先輩たちのアジトだった芸館洞 24番(回)ユゾングリョル先生の家で寄居してイウルギュ, 李正規, ギムジガング, ギムヒョングユン, イソックギュ, 李圭昌など先輩アナーキストたちと交流して本格的な自由連合運動の道に足を入れるようになるのだ.

師匠である剥製頃先生とともに鐘路通過南大門市場などを歩き回って黒白回を組織して南大門市場自治運動を導き出したし, 1947年には韓国革命委員会活動にも参加した.
革命巨事が失敗に帰った後アナーキストたちの活動は大きい一転機に出会うようになるのに, 冷戦構図に頭が上がらなくて人質につかまっている民族的危機の状況で直接民主的よく協同の共同体領域を拡大して行くことだけが当時アナーキストたちができる最善の道だという判断の下に一般大衆を相手にする社会教養運動の方に邁進するようになるのだ.
当時このようなツィジハにアナキズム運動の中心になった所が '国民文化研究所'だ.
国民文化研究所が通った 20世紀後半の間一貫されるように追い求めた課題はよく協同の自由共同体社会を基層から具現する事だった.
李ムンチャンは一生を国民文化研究所の主軸で活動して自主学習運動, 文化教養運動, 農村運動, 自由共同体運動を展開して行った.
最初に照明する韓国革命委員会


この本で特に目を注いで見る点は著者李ムンチャンがアナキズムに目覚めながら加わるようになる多くの活動たちの具体的な顛末だ.
アナーキストたちが主軸になって推進した臨時政府烽台運動と異意一環に全民族的な革命巨事を計画した韓国革命委員会活動, そして 6・25 当時アナーキストたちが北朝鮮軍占領下のソウルでした地下運動などはその間全然深層的に扱われなかった部分たちだ.
他律的政治を排撃するアナーキストたちが臨時政府烽台運動に音頭を取って急進的革命を推進したことは臨時政府こそ 3・1運動で誕生した前民族の自律機関だと見たからだ.
朝鮮民族を代表するに値する合法的代表機関が切実だったところに, 重慶臨時政府の象徴性を先に立たせて自由連合方式の全国的自治組職に土台して自主・民主・統一の過渡政府を樹立するということが彼らの構想だった.
当時アナーキストたちの構想した政府は調査統計と企画機能を遂行する一種の中央朝廷器具として, 徹底的に権力及び産業の集中化を排除して個人の自由と地方自治を保障するそんな自主管理機関だった.
こんな構想を実践に移すためにアナーキスト陣営は一方では左翼民族主義人士と同盟して反信託独立運動団体を総網羅した共同栓では(デハンドックリブチォックソンググックミンフェなど) 組職の中心役目をするとか全国アナーキスト大会(1946年 4月)を開いて労農政党(独立労農当たり) 組職を通じる政治的立地強化の道を模索したし, 他の一方では直接市民社会に掘り下げて自由社会建設者連盟など革命運動の前衛になる自由連合組職(農村自治連盟, 労動者自治連盟など)を拡散させることに力を注いだりした.
特に注目するに値することは韓国革命委員会活動だ.
韓国革命委員会は 1947年 3・1節を基点に全民族的な巨事を推進するためにアナーキスト係と民族陣営勢力が連合して発足した組職だ.
著者は当時韓国革命委員会の出発をこんなに振り返る.
韓国革命委員会という組職に対しては知られたところがほとんどない.
1946年末, 解放になってから 1年が経ったがアメリカとソ連の占領意志を折る道が見えなかった当時の状況で民族共同体の死活がかかった危機を突破する道は直接行動しかないという革命不可ピロンが頭をもたげた.
臨時政府元老たち(白凡, 庁舍など)を衛戍にして革命的独立運動勢力(鄭寅普, 流暢与えた, アンホヒョングなど)とザユサフェゴンソルザヨンメングギェアナーキスト(イウルギュ, 李正規, ユゾングリョルなど) 志士が連合して革命委員会を構成したし, 大韓民国臨時政府の実質的な株券回復のための巨事を計画した.
しかし革命準備がほとんど完了した時点に巨事を気づいた米軍政側の厳重な境界取り締まりと民族陣営内日和見主義勢力(韓民党系列)の離反で結局革命が座礁してしまった.

たとえ挫折の革命で終わったが大韓民国主権を自主的に回復しようとする熱望を具体的に実現しようとしたという点で革命委員会の活動は私たち解放戦後史で大きい意義を持つ.
この本で革命委員会を照明する部分は当時アナーキストたちが信託統治反対運動の中心で核心的な役目をしたという事実を見せてくれる重要な指標になるだけでなく革命委員会のあいさつ, 協同体, 行動組職, 革命政府人選計画, 巨事の 5段階, 後続措置 5段階など資料が消失してその間具体的に挙論されることができなかった内容をそのまま盛っているという点で解放戦後史研究に重大な史料を提供すると言える.
また初めて明かされるソウルのレジスタンス
革命が挫折されて李承晩が米軍政を背に負って政府隋伴になった以後韓半島は 6・25 戦争というもう一度の試練を経験するようになる.
李承晩政府が首都を発って逃避行為をしている当時北朝鮮軍治下のソウルで自由を取り戻すために組織的に抵抗したアナーキストたちがあった.
当時アナーキストたちの '反侵略市民自慰活動連絡網'は自分の生命と自由を守ろうとする民衆たちにとって希望の紐をおかないようにするしんばり棒だった.
彼らは国連軍のソウル奪還が近付く時点に合わせて, その間空白状態のソウルで住民たちが発揮した抵抗力量を自慰自治の力量で転換させて自律的に市内治安を担当するという計画の下に 'ソウル市民自警団本部'を設置したりした.

新しい社会を建設して見ようという夢は賦役者処罰法など李承晩政府の画びょうでまた絶望に抜けてしまったが著者は当時アナーキストたちが自慰自治の夢を実現しようと身悶えした 'ソウルのレジスタンス'だったと自負する.
一つ一つ呼び出すアナーキストたちの名前
この本はその間よく知られなかったアナーキストたちの細細しい面貌をうかがうことができる楽しさを提供したりする.
芸館洞 24番地で会った先輩アナーキストたちと 1946年前後に活発に活動したアナーキスト先輩と同志ら(ハギラック, ツェヘチォング, イドングスン, 梁喜石, ゾハンウング, ゾングレドング, オナムギ, チェウングック, 張連誦など)に対する話は当時アナーキストたちの生活ぶりをいきいきと見せてくれる.
南大門市場自治運動, 黒白回, ソルヒョングフェなどの活動を通じて会った閔初たちに対する話は何が真正な運動なのかを置いて取り組んだアナーキスト青年の苦悩をうかがうことができるところだ.
この本は当時アナーキストたちが活動した場所たちの現在姿も盛っている.

出獄同志回事務室があった茶洞 114番地, 自由社会建設者連盟事務室があった鐘路長安ビル, アナーキストたちのアジト芸館洞 24番地, 革命発議を論議した昌徳宮のツィハンゾング, 黒白回活動の中心地だった昔の永同工業所席, 南大門市場自治活動の跡, 革命委員会の秘密アジトだった鐘路3街朝鮮貿易席, 督促国民回事務室だった雲弦宮の洋館などを盛った写真は至恩と後輩同志らの何回の現場踏査あげく出た結果物だ.
またその間名前さえよく挙論されなかったアナーキストたちの写真も見られるのに, 至恩と国民文化研究所の古いアルバムで捜し出すとか遺族たちを通じて旧恨写真だ.

このような復元作業は解放前後に活発に活動したアナーキストたちの名前を知らせる重要な電気になるでしょう.
著者はこんなに韓国アナキズム運動歴史の一裾を共有する事を通じて若者達との連帯と新しい前進を夢見る.
21世紀総管里体制の抑圧から脱して自由・平等・相互扶助の社会を実現して, 情報化, 世界化の荒い波の中で草根市民社会の人間的な生を維持して拡張させて行くためには自分実現の意志がまだ生きて呼吸する大きさたちである未来世代によるしかないと言う著者はこの本が絶対自由と平等を夢見る人々に希望を植えてくれることができるように願う

著者 | 李ムンチャン
著者
愁悶樹民 李ムンチャン李文昌は 1927年忠北鎭川で生まれて幼いごろから漢文を勉強して新式教育を受けた後, 10代後半にアナキズム運動に投資信託, 一生をアナーキストとして自主学習運動, 文化教養運動, 農村運動, 自由共同体運動など社会運動に献身した, 解放後韓国社会運動とアナキズム運動の生き証人だ.
1943年ソウル青坡洞広済漢薬局店員でソーシャルライフを始めた李ムンチャンはその後信託統治反対運動に加わったことをきっかけで自由社会建設者連盟傘下の黒白回に参加して社会運動を始めた.
1947年初には韓国革命委員会活動に参加して, 1948年にはソルヒョングフェ組職に参加して自主学習運動を展開したし, 1950年ソウルが 3ヶ月の間北朝鮮軍治下にある間にはレジスタンスとして反転反共山民衆地下運動を広げた.
また釜山避難の中には外軍部隊労動者の文化教養運動を主導と, 軍に強制徴集されて行っては戦争に反対して当時としては類例がない 21日間の断食をあげたし, 1954年にはソウルでファンリョックハックワン, 勤労青少年団を組織して活動した.
1947年発足当時から国民文化研究所(文教部社会団体登録第1号)に参加した李ムンチャンは国民文化研究所の農村運動, 水産運動, 生活協同組合運動などに献身して, 国民文化研究所の引っ越し(1964~1983年), 副会長(1983~1990年), 会長(1990~2003年)を過ごした.

国際通信社外信記者(1956年)と経済通信社外信記者(1959年)を過ごしたりした李ムンチャンはしゃくし一杯主人連盟大会(1987年) 幹事に被選されて, 世界平和国際回の(1988年) 社会を見たし, 光復 50周年記念韓国自由社会運動国際学術回の(1995年)を主宰下だった.

1988年第1回ウグァンサングを受賞した李ムンチャンは今も国民文化研究所名誉会長, 朴烈意思記念社会理事, 自由共同体研究会常任顧問で旺盛に活動して, 2006年からは毎年韓国と日本を行き交って ‘自由共同体運動と東アジアの未来’を主題で韓日共同ワークショップを進行している.

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目次
端書き
プロローグ
第1章 8・15 解放:
道はどこえ?
1. 故郷での 8・15
2. 解放政局の渦
3. 民族自主の動き:
出獄同志回と自由社会建設者連盟
4. 中国での韓人アナーキスト運動
5. 米軍政, 李承晩, 臨時政府そして北朝鮮
6. 3お膳決意, 反信託, 臨時政府宝位無力準備運動
7. 解放空間で会ったアナーキストの魂:
作故同志追悼回
8. 農村自治連盟と労動者自治連盟
9. ギョングナムブックアナキストデフェと全国アナーキスト大会
10. 胸にささった矢
11. 芸館洞 24番(回)そして革命授業の道
第2章自由連合の原点で
1. 混乱の解放政局, 1946年
2. 地方遊説台とデハンドックリブチォックソンググックミンフェ
3. 聖者剥製頃先生
4. 中間決算としての革命発議
5. 自由連合の原理
6. 3意思有害奉還と国民葬
7. 黒白回発足
8. 南大門市場自治運動
9. 芸館洞の支社
10. アナーキストとその集団
第3章革命の時間:
韓国革命委員会
1. また話され始めた革命不可避では
2. 革命委員会発足
3. 信託統治反対運動の再演
4. 雲弦宮の督促国民回風景
5. ベトナム人の教訓
6. ?朝鮮革命宣言?をテキストで
7. 景教場の革命対策
8. 反信託陣営の不協和音
9. 巨事計画最終点検
10. 水の泡となった革命巨事
11. 反省
第4章自由争取のその日まで
1. また原点で
2. 百年大計の文化教養運動
3. 成均館大学の学風
4. スゴックと家内副業運動
5. 自我実現の道:
ソルヒョングフェ発足
6. 狂乱の序曲:
6・25戦争勃発
7. 金日成の誤った判断と戦争責任
8. ソウルのレジスタンス:
自由を取り戻そうとする身震い
9. 1・4 後退そして草根たち
10. 廃墟の上の若芽
エピローグ:
'民' 中心の社会で
付録:
解放政局, 1946年の韓半島状況
参考文献
捜してみる
[アラジン提供]

『解放空間のアナーキスト』



解放空間のアナーキスト>発行した李ムンチャン


1945年 8・15解放の喜びも少しの間, その年 12月モスクワ 3サングフェウィでの信託統治決定は十八青年の胸に火をつけた.
坐臥右で分けられて刃が立った対立をする政治現実に絶望した青年は純粋な革命的民族主義を実現することができる第3の路線を探し込んだ.
そうする中偶然な機会に接した ‘無名回’は青年の人生を完全に後先にするきっかけになった.
韓国アナーキストたちの叢集結締である ‘自由社会建設者連盟’と民族陣営の間の連絡窓口役をした ‘無名回’を通じて青年はアナキズムに目覚めて, アナーキストとしての生に第一歩を踏み出すようになる.
▲ 李ムンチャン翁
当時ソウル鍾路区芸館洞 24番(回)ユゾングリョル先生の家に泊まってイウルギュ, 李正規, ギムジガングなど先輩アナーキストたちのおつかいを引き受けてした熱血青年はいつのまにか八旬年寄りになった.
韓国 2世代アナーキストの最後の走者である李ムンチャン(81) 国民文化研究所名誉会長だ.
彼が今までほとんど知られなかった解放以後韓国アナキズム運動の現場を照明した著書 ‘解放空間のアナーキスト’(理学士)を発行した.1970年代出刊された ‘韓国アナキズム運動社’は解放の前の活動までに紹介されていて解放後のアナキズムに対する本格的で体系的な記録はこの本が初めだと言える.
●韓国 2世代アナーキストの最後の走者
“3・1運動を前後して抗日独立運動を広げた短才シン・チェホ, 友党イフェヤング先生みたいなアナーキストたちが 1世代なら, 解放後朝鮮民族共同体の運命を悩んだアナーキストたちは 2世代にあたります.
あの時革命を一緒に悩んだ先輩と仲間たちは皆あの世に去って, これから私だけ残るようになったのだからもっと遅れる前に歴史を記録しなくちゃいけないと言う使命感と責任感がしました.”



▲ 1975年日本で活動するアナーキストフィリップビリングスリー(前列左側一番目) 教授の韓国訪問を記念して撮影したアナーキストたちの団体写真.
ビリングスリー教授右側二番目が李ムンチャン会長だ.
理学士提供.
本には 1947年臨時政府烽台運動と革命巨事を計画した韓国革命委員会の活動と 6・25 当時北朝鮮軍占領下のソウルでしたレジスタンス運動などアナーキストたちの無力闘いがおもしろく記述されている.
しかしこれよりもっと注目するに値する内容はアナーキストたちが ‘国民文化研究所’を設立して一般大衆を相手にした社会教養運動, 農村運動, 自由共同体運動に邁進したという事実だ.
国民文化研究所は革命巨事が失敗に帰った状況で直接民主とよく協同の共同体領域を拡大するためには民衆の生産現場に掘り下げて共同生活訓練を通じる社会構造改革運動を広げなければならないという判断によって以後アナキズム運動の中心になった.
この会長は 1947年設立初期から研究所活動に参加して今まで 60年間この事に邁進して来た.

1922年11月8日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛。

「…おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様子はちっとも知らず、またその日の朝刊にも夕刊にも暁民会連の検束のことの外には何も書いてなかった。大島へ電話をかけるとオジャンになってしまったのだそうだ。…………きのうの半日ときょうの半日とで、<自叙伝>の今まで書いた分を直してしまった。書くときにはずいぶん一生懸命になって書いたんだが、今見るとあちこちいやになって仕方がない。が、直すのも大変だし、大がいはそのままにしておいた。すぐ改造社へ送って、組みはじめさせる。………」