2006-09-01から1ヶ月間の記事一覧
と見えるやうな気がする。古田大次郎「獄中手記」より。当該日の記述部分。
短文では『救援』紙9月号、『模索舎通信』の次号に書きました。季刊『山の本』9月15日ころの発売にも連載が掲載されています。『トスキナア』4号は10月15日発行で皓星社のレイアウト・版下制作段階に移っています。
夜の眠りは流石に安らかでない。江口夫妻が来てくれた。和田君の控訴はやめたさうだ。
…昨日面会場で布施君と話してたら、机の下で蟋蟀がないてゐた。 昨日自動車の内から、外の景色を眺めてこれが見納めかと思つたが、別に変つた感じも起らなかつた。和田君を突ついて如何だいと聞いたら、同じやうな事を答へた。 和田君の無期が問題になつた。…
……夜になるとコツコツ 隠れ家の怪 上蛇窪の隠れ家は差配金子峰蔵から七月十五日から一月廿二円敷金三ヶ月分として借り受けたものであるが誰が住んでゐるのか近所の者には顔さへ見せなかつたが…。
帰監後、予ての覚悟だつたから、宣告を聞いた後も、怖ろしい事も淋しい事もない。実に静かな気持ちだ。判決が思ひ通りだつた所為か、大変愉快だ。…今日は加藤一夫君が来てくれたので…仮監で和田君に会つた時、和田君は物も言はずに突然手を握つて「しつかり…
この演説会は、官憲の介入で途中で解散させられたが、当時日帝本国で活動していた朝鮮の社会主義者と日本の社会主義者たちが初めて協力して開催した集会である。 朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される。(信濃川虐殺真相調査会が組織され新潟現地調査に…
懇談により以後月に一回の例会となり、12月5日の例会より「黒耀会」と正式に名称を決める。 「別に深い意味がない。会員の多くが馬鹿に黒と云ふ字を会名に付けたがつて居るのと、黒耀石と云ふ石……から取つた名で黒耀と云ふ字義通に解釈しても少し深みがある…
僕は、死刑は素より覚悟の上です。九月十日にどんな判決があつても、決つしてお歎げき下さいますな。 …村木はあの体ですから、捕つたら駄目だとは思つてゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかつたです。僕が思はず枕頭に涙を流した…
1923年9月3日金子文子、朴烈、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束
今日は九月一日── 震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。土手下で…
『労働運動』紙より1925年6月27日。和田君は第三回公判廷にて左のやうに言つた。「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、 火事場泥棒的に…