2006-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「死んでからも世の中の事を見る事が出来るやうな気がするるそれも遠い遠い所から豆粒のやうに小さい人間や、玩具のやうな家などがチヤン

と見えるやうな気がする。古田大次郎「獄中手記」より。当該日の記述部分。

8月中旬から抱えていた原稿執筆は大方すみました。連載で『洛南タイムス』に「金子文子と中西伊之助」を掲載しているので、京都府南部の方は購読してください。

短文では『救援』紙9月号、『模索舎通信』の次号に書きました。季刊『山の本』9月15日ころの発売にも連載が掲載されています。『トスキナア』4号は10月15日発行で皓星社のレイアウト・版下制作段階に移っています。

1925年9月12日<古田大次郎獄中手記より>

夜の眠りは流石に安らかでない。江口夫妻が来てくれた。和田君の控訴はやめたさうだ。

1923年9月12日ギロチン社、仲喜一、大阪合同紡績重役を狙うが、東洋紡績重役を狙撃重症を負わす。

1925年9月11日。古田大次郎獄中手記より「和田君の無期が問題になつた」

…昨日面会場で布施君と話してたら、机の下で蟋蟀がないてゐた。 昨日自動車の内から、外の景色を眺めてこれが見納めかと思つたが、別に変つた感じも起らなかつた。和田君を突ついて如何だいと聞いたら、同じやうな事を答へた。 和田君の無期が問題になつた。…

1924年9月10日古田大次郎逮捕。古田大次郎、弾圧。上蛇窪の根拠地に刑事を派して内偵させた所、倉知は七月二十八日金策のため下阪して六畳、三畳二間の長屋には古田と村木が潜んで既に製造された爆弾十数個が積み上げられてゐることが判り、万一踏込みが知れるや爆弾を爆発し自殺しかねまじき形成なので刑事は二日三晩といふもの同家を遠巻にして捕縛の方法に苦心の末遂に多少の犠牲者を出す覚悟でいよいよ九月十日午前一時頃刑事部からは土屋、出口、恒岡の三警部及び特高、内鮮刑事部からそれぞれ敏腕な刑事三十名を選び全部変装してこれを

……夜になるとコツコツ 隠れ家の怪 上蛇窪の隠れ家は差配金子峰蔵から七月十五日から一月廿二円敷金三ヶ月分として借り受けたものであるが誰が住んでゐるのか近所の者には顔さへ見せなかつたが…。

1925年9月10日古田大次郎獄中手記より『死刑の宣告を聞きにゆく日』九月十日! 去年の今日、朝早く、寝込みを襲はれて村木君と僕は、他愛なく警視庁に挙げられて終つたのだ。早いもので、もう一年経つた。因縁の深い今日、刑の宣告を承はりに、さア出掛けるとしようかな。

帰監後、予ての覚悟だつたから、宣告を聞いた後も、怖ろしい事も淋しい事もない。実に静かな気持ちだ。判決が思ひ通りだつた所為か、大変愉快だ。…今日は加藤一夫君が来てくれたので…仮監で和田君に会つた時、和田君は物も言はずに突然手を握つて「しつかり…

今日のNHKドラマ『純情きらり』から「この戦争を私は許さないことに決めたんです。この戦争がよいこと正しいことだ戦うべき価値があるんだ、と弟を奮いたたせて戦場へ送り込んだ人たちのことを、それを止めなかった自分を、ですからあなたのことを許せません」。

1922年9月7日。信濃川虐殺真相調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」が開催される。

この演説会は、官憲の介入で途中で解散させられたが、当時日帝本国で活動していた朝鮮の社会主義者と日本の社会主義者たちが初めて協力して開催した集会である。 朴烈は現地調査を報告、中浜哲は検束される。(信濃川虐殺真相調査会が組織され新潟現地調査に…

1924年9月6日。古田大次郎、http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/furutadaijiro-jiten.html震災直後からの戒厳令司令官・福田雅太郎宅に小包爆弾を送りつける。爆発するもけが人なし。

1919年9月5日望月桂 駒込千駄木町210の自宅で革命芸術の茶話会を開催する。久板卯之助、小生夢坊、林倭衛、添田唖蝉坊、中里介山、川口慶介、印刷工労働者等が参加。

懇談により以後月に一回の例会となり、12月5日の例会より「黒耀会」と正式に名称を決める。 「別に深い意味がない。会員の多くが馬鹿に黒と云ふ字を会名に付けたがつて居るのと、黒耀石と云ふ石……から取つた名で黒耀と云ふ字義通に解釈しても少し深みがある…

1925年9月4日和田久太郎書簡[橘あやめ宛]「其後お変りもありませんか。遠くアメリカから私共の事を御心配下さる御言伝ては、いつも近藤君から有難く聞いて居ります。僕の求刑を知つて大いに驚かれた由、こんなことは米国ぢや見られないでせうが、之れが日本の国の正体なんです。

僕は、死刑は素より覚悟の上です。九月十日にどんな判決があつても、決つしてお歎げき下さいますな。 …村木はあの体ですから、捕つたら駄目だとは思つてゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかつたです。僕が思はず枕頭に涙を流した…

1924年9月3日 古田大次郎、村木源次郎、和田久太郎が留置されていた本郷本富士署にタバコ缶を外装とした爆弾を投げ込むも不発

1923年9月3日金子文子、朴烈、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束

一、二行のメモ程度ですが韓国訪問中の日に遡り「追記」をしました。

ヤフーの幾つかのブログで金子文子が話題になり、幾つかは訪問しました。<★ファピー の바람꽃★>ファピーの風の花 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41052976.html#41283600に投稿をしています。

四月以来、更新をしていなかった<アナキストたちの記憶>http://d.hatena.ne.jp/ichigaya/を数日前から手直しと整理をしました。

<九月一日の思出に──>

今日は九月一日── 震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。土手下で…

1924年9月1日和田久太郎、大将・福田雅太郎の狙撃失敗、逮捕される

1924年9月1日和田久太郎、大将・福田雅太郎の狙撃失敗、逮捕される。『労働運動』紙に引用「和田久太郎意見陳述」 和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べているが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズアップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』の<酔蜂・和田久太郎>一九五七年。「関東大震災のとき大杉栄、伊藤野枝らが殺害されたことの報復を念として…」八七頁。<アナキスト・和田久太郎>一九七一年、においては「和田久太郎はもし大杉暗殺の復讐としての福田暗殺に成

『労働運動』紙より1925年6月27日。和田君は第三回公判廷にて左のやうに言つた。「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、 火事場泥棒的に…