シン・チェホ (再掲)

1880年12月8日-1936年3月14日
歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動アナキズム運動の中心で活動。忠清南道大徳郡山内面於南里に生まれる。成均館に入校。1898年、独立協会に加入して活動、検挙され投獄。1905年、成均館博士(教授の総称)を受けるが辞退し『皇城新聞』の論説記者として言論界に進出、筆致は鋭く1905年『大韓毎日申報』の論説記者として招かれ「イ・スンシン(李舜臣)伝」「乙支文徳伝」「チェ・ドトン伝」など国家と民族の危機に対しかつて闘った名将の業績を著わす。『大韓毎日申報』に「読史新論」「小説家の趨勢」「帝国主義民族主義」などを発表。1910年中国、次いでウラジオストックに亡命。『海潮新聞』『青丘新聞』『勧業新聞』『大洋報』などの発行に参加しつつ抗日運動を続ける。上海で博達学院を開設、青年たちを教育。1914年白頭山、広開土大王陵などの旅行、貴重な経験となる。1915年、新韓革命団<新韓青年会>を組織するが歴史研究と文学的な創作に没頭する。1916年春、北京で中篇小説『夢空』を発表、独立運動を象徴的手法で劇化した、代表的な小説。その後北京で歴史研究に邁進。「大韓独立宣言書」が国外の39人の独立運動指導者の名で発表され「戊午独立宣言」とも呼ばれる独立宣言に主要人物として参加。

この宣言書は武力闘争が唯一の独立運動であることを宣言し、2・8独立宣言や3・1独立宣言とは内容的に違う。1919年、上海において統合した臨時政府構成の論議に入りシン・チェホは議政院の全院委員長に推されるがイ・スンマン(李承晩)に対し「彼はない国まで売り払う…」と激しく反対し訣別。 北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年北京大学の中国人教授、アナキストのリ・シチユン(李石曽)との交際でアナキズムへの理解を深め幸徳秋水に共鳴したという。1924年独立運動の行動隊であった「多勿団」を指導し活躍。多勿団は、イフェヨン(李会栄)の甥であるイ・ギュジュンが仲間とともに作った武装独立運動団体。「多勿」というのは、祖国の光復という意味。シン・チェホは、この多勿団の組織と、宣言文を作成するにあたって支援。1922年には、キ厶・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団に顧問として加入。1923年義烈団宣言である「朝鮮革命宣言」を作成。(朴烈・金子文子の予審調書に資料として全文が翻訳され添付されている)。日帝に対する非妥協的な闘争で一貫した義烈団はシン・チェホの運動精神とも合致していた。独立運動が民衆革命によりなせると判断、1924年北京で初めて結成された在中国朝鮮アナキズム者連盟の機関誌である

『正義公報』に論説を載せアナキズム運動に傾く。1927年、南京で設立され日帝本国からも含めアジア各地域のアナキストが参加した東方無政府主義連盟に加入、機関誌である『奪還』『東方』にも中心的に関与し文章を掲載。この頃小説「竜と竜の大激戦」執筆といわれる。また幸徳秋水を高く評価し『基督抹殺論』を漢訳、中国のアナキズム雑誌『晨報』に掲載。1928年4月、朝鮮人アナキストたちの北京東方連盟大会から本格的にアナキズム革命運動に参加。活動のため資金闘争として外国偽造紙幣を作り、爆弾製造所設置に活用を企図。シン・チェホは中国人のユ・ビョンテクという仮名でこの偽造紙幣を交換しようとしたが、発覚し台湾の基隆港で逮捕される。2年間にわたる裁判の後、懲役10年の判決を受け旅順監獄に収監。1929年10年7日付けの『東亜日報』には「幸徳秋水の著作を読んで共鳴し最も合理的である」と法廷での発言が掲載されている。1931年逮捕前の草稿「朝鮮上古史」が朝鮮日報に連載。刑期を3年ほど残し、病気が悪化、1936年2月21日<旧暦>、脳溢血で獄死。著作『改定版丹斎申采浩全集』全4冊、蛍雪出版ソウル1977年。和訳『朝鮮上古史』『竜と竜の大激戦』 文献「申采浩の啓蒙思想梶村秀樹、「恨と抵抗に生きる、申采浩の思想」「申采浩と民衆文学」金学鉉、「朝鮮革命宣言と申采浩」高峻石