石川啄木墓碑銘
一九一一・六・一六・TOKYO
われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬す──
かの郊外の墓地の栗の木の下に
彼を葬りて、すでにふた月を経たれども。
実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。
或る時、彼の語りけるは、
'同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。'
'かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。'
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。
かれは労働者──一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。
かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫言を口にせざりき。
‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。
ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。
彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
‘我には何時にても起つことを得る準備あり。’