1925年1月24日。村木源次郎死す。


<東京朝日新聞

1.24

某重大犯人市ヶ谷で獄死

臨終の間際に共犯と妻に接見を許され

保釈の自動車で絶命

■昨秋勃発した某重大事件の犯人として検挙され、市ヶ谷刑務所の未決監に収容されてい

た村木源次郎(三三)は最近宿痾の肺患が重り二十三日正午俄に危篤の状態に陥った

 急報によって午後二時東京地方裁判所の沼予審判事、平田検事、及び布施弁護士が駆け

つけた時は村木は既に意識を失っていた弁護士は直ちに保釈を申請したが裁判所側では万

一病気恢復の場合の危険を慮ってなかなか出獄を許さなかったが、午後三時いよいよ絶望

との医師の診断で弁護士の切望により保釈を許す事となり、同事件の被告某々両名は 特

に名残りの接見を許された、村木は右被告両名に『苦しい然し今になって何にも云いたく

ない、もうお別れだ』と別れを告げ転ぶ様に駆けつけた妻女の『判りますか』の声に唯『

判る』とのみ微かに唇を動かしたのを最期に昏睡状態に陥った、間もなく村木を載せた自

動車は刑務所の門を出たが、午後五時途中で全く不帰の客となり、同三十分小石川の労働

運動社に屍となって迎えられた、此の結果同人に関する被告事件は公訴棄却となった