1911年1月25日。管野須賀子、東京監獄にて処刑される。

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ブログ「大逆事件」






東京監獄処刑場跡地。



死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず
自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ
                             

 明治四十四年一月十八日

                  須賀子

                   (於東京監獄女監)

明治四十四年一月十八日 曇

 死刑は元より覚悟の私、只廿五人の相被告中幾人を助け得られ様かと、夫のみ日夜案じ暮した体を、檻車に運ばれたのは正午前、…………

 時は来た。…………

 幾つとなく上る石段と息苦しさと、…………やや落着いて相被告はと見ると、何れも不安の念を眉字に見せて、相見て微笑するさえ憚かる如く、いと静粛に控えて居る。

…………

 読む程に聞く程に、無罪と信じて居た者まで、強いて73條に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)が益々甚だしく成って来るので、私の不安は海嘯の様に刻々に胸の内に広がって行くのであったが、夫れでも刑の適用に進むまでハ、若しやに惹かされて一人でも、成る可く軽く済みます様にと、夫ばかり祈って居たが、噫、終に…………万事休す牟。新田の11年、新村善兵衛の8年を除く他の廿四人は凡て悉く之れ死刑!

 実は斯殷うも有うかと最初から思わないでは無かったが、公判の調べ方が、思いの外行届いて居ったので…………今此の判決を聞くと同時に、余りの意外と憤懣の激情に、私の満身の血は一時に嚇と火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた。

 噫、気の毒なる友よ。同志よ。彼等の大半は私共五、六人の為に、此不幸な巻添にせられたのである。私達と交際して居ったが為に、此驚く可き犠牲に供されたのである。無政府主義者であったが為に、圖らず死の淵に投込まれたのである。

 噫。気の毒なる友よ。同志よ。

 ………… 

 噫。神聖なる裁判よ。公平なる裁判よ。日本政府よ。東洋の文明国よ。

 行れ、縦ままの暴虐を。為せ、無法なる残虐を。

 殷鑑遠からず赤旗事件にあり。此暴横・無法なる裁判の結果    は果して如何?

 記憶せよ、我同志!、世界の同志!!

 …………「驚ろいた無法な裁判だ」と、独り繰返す外は無かった。

 …………さらば、廿五人の人々よ。さらば廿五人の犠牲者よ。さらば!。

「皆さん左様なら」

私は僅かこれ丈けを言い得た。

「左様なら…………」

「左様なら…………」

太い声は私の背に返された。私が法廷を[五、六歩出ると──抹消]出たあとで、

「万歳──」

と叫ぶ──抹消]叫ぶ声が聞えた。多分熱烈な主義者が、無政府党万歳を叫んで居るので有う。第一の石段を上る時、

「管野さん」

と声高に呼んだ者もあった。

…………

無法な裁判!

…………

…………

前列の仮監の小窓から、武田九平君が充血した顔を出して、

「左様なら」

と叫ぶ。私も「左様なら」と答える。又何処からか「左様なら」という声が聞える。此短かい言葉の中に千万無量の思いが籠って居るのである。

 檻車は夕日を斜めに受けて永久に踏む事の無い都の町を市ヶ谷へ走った。

…………


十九日 曇

 無法な裁判を憤りながらも数日来の気労れが出たのか、昨夜
は宵からグッスリ寝込んだので、曇天にも拘らず今日は心地がすがすがしい。

…………

 夕方沼波教誨師が見える。…………絶対に権威を認めない無政府主義者が、死と当面したからと言って、遽かに弥陀という一の権威に縋って、被めて安心を得るというのは[真の無政府主義者として──抹消]些か滑稽に感じられる。

……………………