2003年7月末→8月1日

韓国から来訪の研究者≪事典項目執筆・翻訳≫を案内。それぞれ金子文子伊藤野枝への研究の深化と理解を深めるため。国会図書館占領期資料室で朴烈に関わる韓国語文献、確認、複写依頼。山田昭次さん宅で懇談。文献<複写>を提供される。
伊藤野枝>研究に向けて堀切利高さんから助言を受ける。初期社会主義研究会事務所にて。

 二人は東京を離れました。この4日間、文献調査と1920年代、朝鮮アナキスト関連地を回りました。東京監獄跡の碑も確認。大江戸線東新宿」から5分程の小さな公園にあります。幸徳秋水古田大次郎たちの刑死した土地。

「東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれて一九〇五年五月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれ

た。……一九二二年一〇月一三日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれるようになった」

 一九六四年に森長英三郎さんが日弁連有志に刑死者の慰霊塔建立を呼びかけた。その経緯と監獄の変遷は『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』1967年発行(小冊子)に詳しい。

 日弁連有志に働きかけ跡地の町会の人たちから協力を得「死刑囚の慰霊碑」を建てた。

 案内する少し前、七月二三日、「大逆犯」とされた金子文子が「自死」したという日に最後の地である宇都宮刑務所栃木支所跡を私一人で訪ねた。東京からから二時間余り、幾つかの路線を継いで栃木駅に着く。跡地は栃木市の図書館と文化会館に変わっていた。その市立図書館で関連資料の調査を依頼すると正門と連なる官舎の写真しかなく二、三十年前の栃木市内の地図すらなかった。驚いたのは、移転したのは二三年前の一九八〇年であるが、それまでは文子が居た当時の「明治」末に建設された木造二階建て舎房を使用していたという。文化会館敷地を散歩中の方に刑務所の位置関係を尋ねてみた。その方から詳しく舎房の建物の位置を示してもらえた。出会いがなければ刑務所の遺物も跡地の碑も一切無かったので漠然としか想起出来ないまま、離れざるを得なかった。市民の憩いの場として樹々も新たに移植され、刑務所跡を人々の記憶から消そうとした行政の思惑は露骨であるが、その住民は懐かしさを込めエピソードも語ってくれた。

参考 <1926年4月の初めに市ヶ谷刑務所から移された金子文子

 書物の所持を制限され労役で筆記の時間も無く自らの境遇か他の囚人への扱いなのか看守に抗し 歌を残す「手足まで不自由なりとも 死ぬといふ、只意志あらば 死は自由なり」「さりながら手足からげて 尚死なば そは<俺達の過失ではない>」「殺しつつなほ責任をのがれんと もがく姿ぞ 惨めなるかな」「皮手錠、はた暗室に飯の虫 只の一つも 嘘は書かねど」「在ることを只在るがままに書きぬるを グズグズぬかす 獄の役人

参考 <『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』森長栄三郎発行、より抜粋>

 ≪鍛冶橋監獄署、東京監獄沿革≫

「警視庁監獄署は元鍛冶橋内監倉事務取扱所と称し、八重州町に在り…1870年12月の創設……1874年12月、竣工、称して鍛冶橋監獄……

 1903年3月、警視庁官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は司法大臣の管理、警視庁第四部直轄たりし鍛冶橋監獄も独立して東京監獄と改称、これより先
 1901年4月、牛込区富久町113番地に19000坪弱の地に未決監仮建築の工を起こす、
 1904年3月31日、建坪2700坪、303房に区画、
 1903年6月25日、鍛冶橋より移転、東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれ1905年5月からのようである。

 それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……

 1922年10月13日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれ……震災で被害を受けたが

 1926年には復旧完成……

 1937年5月25日、池袋駅近くの東京拘置所が落成するとともに市ヶ谷刑務所はなくなった。……

  ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことである。幸徳秋水らが東京監獄から発信したものをみると「市ヶ谷富久町113」になっている。しかし、刑場跡の一帯は富久町66番地であったという。

 1950年から刑場跡余丁町88番地の一隅と言うことになった。おそらく東京監獄ができる前の町名番地が復活したものであろう。1949年頃、刑場跡の場所が富久児童遊園となった。………





再び管野須賀子
 松の梢も檜葉の枯枝もたわわに雪が降り積って、夜の内に世は銀世界となって居る。…………

★塀を隔てた男監の相被告等は、今、何事を考えて居るで有う? この雪を冷たい三尺の鉄窓に眺めて、如何なる感想に耽って居るで有う? 

……………………

両三日前堺さんから来た葉書に

四日出の御手紙拝見、獄中日記ハ卒直の上にも卒直、大胆の上にも大胆に書き給えかし切に望む。

……………………

<英語の勉強の話>

……………………

 この日記は堺さんに言われるまでも無い。一切の虚偽と虚飾を斥けて赤裸々に管野須賀子を書くのである。

★廿一日 晴れ

応挙の筆になった様な松の雪に朝日が輝いて得も言われぬ趣きがある。

<幸徳の母の死に関する記述>

 風邪の気味で頭の心が痛いけど入浴する。入浴は獄生活中の楽しみの一つである。面会・来信・入浴──みよりの無い私の様な孤独の者ハ、面会も来信も、少ないので、五日目毎の入浴が何よりの楽しみである。

 蒼々と晴れた空から鉄窓を斜めに暖かそうな日光がさし込んで居る。湯上りののびのびとした心地で机の前に座った[心地・抹消]時は何とも言われない快感を覚えた。このまま体がとけて了って、永久の眠りに入る事が出来たらどんなに幸福で有うと考える。

<吉川さんの手紙の件>

…政府の迫害を恐れて一身を安全の地位に置かん為め弊履の如く主義を擲った某某等! 噫、数奇なるは運命哉。弱きは人の心なる哉。去る者をして去らしめよ。逝く者をして逝かしめよ。大木一たび凋落して初めて新芽生ずるのである。思想界の春日──先覚者を以て自ら任ずる我々は、秋多の過去を顧みるの必要は少しも無い。前途、只前途に向って、希望の光明に向って突進すればよいのである。

 社会の同志に対する其筋の警戒は益々きびしい様子である。今回の驚くべき無法なる裁判の結果から考えても、政府は今回の事件を好機として、極端なる強圧手段を執らうとして居るに相違ない。迫害せよ。迫害せよ。圧力に反抗力の相伴うという原則を知らないか。迫害せよ。思い切って迫害せよ。

旧思想と新思想、帝国主義無政府主義! 

まあ必死と蒲鉾板で隅田川の流れを止めて見るが好い。

<沼波教誨師の訪問>

 今回の事件は無政府主義者の陰謀というよりも、寧ろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である。公判廷にあらわれた七十三條の内容は、真相は驚くばかり馬鹿気たもので、其外観と実質の伴わない事、譬えば軽焼前餅か三問文士の小説見た様なものであった。検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳・宮下・新村・古河・私、と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強いて此事件に結びつけて了ったのである。

 此事件は無政府主義者の陰謀也、何某は無政府主義者也、若しくは何某は無政府主義者の友人也、故に何某は此陰謀に加担せりという、誤った、無法極まる三段論法から出発して検挙に着手し、功名・手柄を争って[苦心・惨憺の 抹消]、一人でも多くの被告を出そうと苦心・惨抹の結果は終に、詐欺・ペテン・脅迫、甚だしきに至っては昔の拷問にも比しいウッツ責同様の悪辣極まる手段をとって、無政府主義者ならぬ世間一般の人達でも、少しく新知識ある者が、政治に不満でもある場合には、平気で口にして居る様な只一場の座談を嗅ぎ出し[て 抹消]夫をさもさも深い意味でもあるかの如く総て此事件に結びつけて了ったのである。

 仮に百歩・千歩を譲って、夫等の[陰謀 抹消]座談を一つの陰謀と見做した所で、七十三條とは元より何等の交渉も無い。内乱罪に問わるべきものである。夫を検事や予審判事が強いて七十三條に結びつけんが為に、己れ先づ無政府主義者の位置に立ってさまざまの質問を被告に仕かけ、結局無政府主義者の理想──単に理想である──其理想は絶対の自由・平等にある事故、自然皇室をも認めないという結論に達するやも、否、達せしめるや、直ちに其法論を取って以て調書に記し、夫等の理論や理想と直接に何等の交渉もない今回の事件に結びつけて、強いて罪なき者を陥れて了ったのである。

 考えれば考える程、私は癪に障って仕方がない。法廷に夫等の事実が赤裸々に暴露されて居るにも拘らず、あの無法極まる判決を下した事を思うと、私は実に切歯せずには居られない。

 憐れむべき裁判官よ。汝等は己れの地位を保たんが為に、単に己れの地位を保たんが為に[不法と知りつつ、無法と知りつつ 抹消]己の地位を安全ならしめんが為に[心にも無い判決を、 抹消]不法と知りつつ無法と知りつつ、心にも無い判決を下すの止むを得なかったので有う。憐れむべき裁判官よ。政府の奴隷よ。私は汝等を憤るよりも、寧ろ汝等を憐んでやるのである。

 身は鉄窓に繋がれても、自由の思想界に翼を拡げて、何者の束縛をも干渉をも受けない我々の眼に映ずる汝等は、実に憐れむべき人間である。人と生れて人たる価値の無い憐れむべき[動物 末梢]人間である。自由なき百年の奴隷的生涯が果して幾何の価値があるか? 憐れむべき奴隷よ。憐れむべき裁判官よ。

 午後四時頃面会に連れて行かれる。堺さん、大杉夫婦、吉川さんの四人。

 面会の前に典獄から公判に就いての所感を語ってはいけないと注意された。此無法な裁判の真相が万一洩れて、同志の憤怒を買う様な事があってはという恐れの為に、特に政府からの注意があったので有う。

 赤旗事件の公判の時、控訴院の三号法廷に相並んだ以来の堺さんと大杉さん、四年以前も今日も見たところ少しも変りの無い元気な顔色は嬉しかった。彼れ一句、最初から涙の浮んで居た人人の眼を私は成るべく避ける様にして、つとめて笑いもし語りもしたが、終に最後の握手に至って、わけても保子さんとの握手に至って、私の堰き止めて居た涙の堤は、切れて了った。泣き伏した保子さんと私の手は暫く放れ得なかった。ああ懐かしい友よ。同志よ。

「意外な判決で……」というと、堺さんは沈痛な声で「[アナタや 末梢]幸徳やアナタには死んで貰おうと思っ[た 末梢]て居たのですが……」多くを語らない中に無量の感慨が溢れて居た。

 <寒村の件>

……然し世は塞翁の馬の何が幸いになる事やら、彼は私と別れて居たが為に、今日、無事に学びも遊びも出来るのである。万一私と縁を絶って居なかったら、恐らくは[今頃は 末梢]同じ絞首台に迎えられるの運命に陥って居た事で有う。

 私は衷心から前途多望な彼の為めに健康を祈り、且つ彼の自重自愛せん事を願う。

大杉夫婦に手紙、堺・吉川の両氏に葉書を書く。

廿二日 晴れ

 昨夜は入監以来始めての厭な心地であった。最後の面会という一場の悲劇が、私の[鋭い 末梢]神経を非常に刺戟したからである。去年6月2日に始めて事件の暴露を知って以来、相当に[精神 末梢]修養をしたつもりで居るのに、仮令一晩でもあんな妙な名状しがたい感情に支配せられるとは、私も随分詰らない人間だ。我乍ら少々愛想がつきる。斯様な意気地のない事で何うなる。

…………

 然し今日は誠に心地がよい。昨夜の感情は夜と共に葬り去られて、何故あんな気持になったろうと不思議に思われる程である。

……

夕刻、平出弁護士と堺さんから来信。

…………

廿三日 晴れ

<妹の墓の件>

…これとても死者の骸が煙と成り、又それそれ分解してもとの原子に帰った後に、霊魂独り止まって香華や供物を喜ぼうなどとは、元より思っても居ないのだから、考えて見れば随分馬鹿馬鹿しい話であるが、そこが多年の習慣の惰性とでもいうのか、只自分の心遣りの為にして居たのであった。

………

墓などはどうでもよい、焼いて粉にして吹き飛ばすなり、品川沖へ投げ込むなり、どうされてもよいのであるが、然しまさかそんな訳にも行くまいから同じ[埋められるの 末梢]形を残すのなら懐かしい妹の隣へ葬られたいのは山々であるが……

<武富検事の件>

……………

 田中教務所長から相被告の死刑囚が半数以上助けられたという話を聞く。

<堺のまあさんからの便りの件>

廿四日 晴れ

堺・増田の両氏と眞ア坊へ発信。

堺さんには在米の弟に記念品を送って貰う事を頼む。

紙数百四十六枚の判決書が来た。在米の同志に贈ろうと思う。

吉川さんが『酔古堂剣掃』を差入れて下すった。

針小棒大的な判決書を読んだので厭な気持ちになった。今日は筆を持つ気にならない。

吉川さんから葉書が来る。

 夜磯部・花井・今村・平出の四弁護士



代々木・正春しょうしゅん寺の管野須賀子の墓碑