1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

梶村秀樹がシン・チェホ(申采浩)に触れた論文を遺している。 
「かれの写真を眺めていると、ふと中国の魯迅と日本の夏目漱石と朝鮮の申采浩という連想が浮んだ。……三人とも、ほぼ同じ世代の、状況と自己から目を離さなかった、ほんものの知識人である。

小さい画像が夏目漱石
……人間的・思想的対比としてそれほど突飛でないような気がしている。いずれにしても、ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていないというべきではないだろうか?」

『申采浩の啓蒙思想』≪季刊三千里≫第九号掲載1977年春
(アップ時の訂正×『近代朝鮮史学史論ノート』2008年4月10日)

 また他の論文でも
「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人のなかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然ではないだろう」と評価されていることに言及している。『申采浩の歴史学』≪思想≫誌掲載1969年 
 シン・チェホの著作は歴史書一冊と短編小説、いくつかの詩の日本語への翻訳はあるが梶村の40年近く前の指摘、「ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていない」という状況は今も変わっていない。
和訳は『朝鮮上古史』『竜と竜の大激戦』。
シン・チェホを論じた文献「申采浩の啓蒙思想梶村秀樹、「恨と抵抗に生きる、申采浩の思想」「申采浩と民衆文学」金学鉉、「朝鮮革命宣言と申采浩」高峻石

 一方、韓国では1970年代に著作が『丹斎申采浩全集』としてまとめられ改定を重ね
三巻にまとめられている。近年は朝鮮史に関する論文だけがクローズアップされナショナリズムを語る文脈の中でたびたび引用をされる。
またキム・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
依頼され1923年に作成している。翻訳が複数ある。
日帝に対する非妥協的な闘争の意思が強かったシン・チェホは義烈団キム・ウォンボンの要請に答え「宣言」を起草した。臨時政府イ・スンマンの腐敗への批判は強かった。  

シン・チェホ
1880年12月8日<旧暦換算同年11月7日>-
1936年2月21日<旧暦換算同年1月29日>
歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動
アナキズム運動の中心で活動。北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年北京大学の中国人教授、アナキストのリ・シチユン(李石曽)との交際でアナキズムへの理解を深め幸徳秋水に共鳴したという。
キ厶・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
1923年に作成。(朴烈・金子文子の予審調書に資料として全文が翻訳され添付されている)。
独立運動が民衆革命によりなせると判断、
1924年北京で初めて結成された在中国朝鮮アナキズム者連盟の機関誌である『正義公報』に論説を載せアナキズム運動に傾く。1927年、南京で設立され日帝本国からも含めアジア各地域のアナキストが参加した東方無政府主義連盟に加入、
機関誌である『奪還』『東方』にも中心的に関与し文章を掲載。
また幸徳秋水を高く評価し『基督抹殺論』を漢訳、中国のアナキズム雑誌『晨報』に掲載。

刑期を 3年位控えて病気の悪くなったシン・チェホ は1936年 2月21日脳溢血で獄死。