詩≪珈琲店 酔月≫萩原朔太郎

坂を登らんとして乾きに耐えず
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂白の悔を知らむ。
女等群りて卓を囲み
我れの酔態を見て憫(あわれ)みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭(ぜに)を数へて盗み去れり。