韓国聯合ニュース 2006-04-03 08:47

東京の知人が昨日、E-メールで知らせてくれました。
山梨の人たちが三月にツアーを組むという話しは昨年秋から
聞いていました。

韓国に埋められた日本のアナーキスト
植民地朝鮮への愛、日本文人訪問客増える

(聞慶 =聯合ニュース) ソン・テソン記者= 日本で生まれて日本で亡くなった
日本女性の墓が韓国にある。慶尚北道聞慶(ムンギョン)市麻城面梧泉里の一
角に位置した墓の主人は日帝時代の独立活動家でアナーキストであった朴烈
(パク・ヨル 1902〜1974)義士の妻金子文子(1903〜1926)。

横浜で生まれた金子氏は、聞慶出身の朴烈義士と、彼が東京に留学していた
1922年に会い、日本帝国主義に抵抗するアナーキストの道を歩むようになる。

それには、警察だった父親から捨てられ、貧困に陥った若い時代に新聞を売っ
たり、食堂で仕事をしながら苦労の生活をした履歴も作用した。

朴義士と同居していた1923年9月1日の関東大地震の時、金子氏は天皇を暗殺し
ようとしたという大逆罪で朴医師と一緒に検挙され、1926年3月25日二人とも
死刑の宣告を受けたが、無期懲役減刑された。

日本当局は、金子氏がその年の7月宇都宮刑務所の女囚独房で首をくくって自
殺したと発表した。

しかし、収監生活中、朴烈と金子が獄中結婚をしたという噂が流れ、獄中で妊
娠までするようになり、当局がこのような事実が外部と知れることを恐れて、
堕胎手術をして亡くなったという説もあり、彼女の死をめぐって、当時の様々
な疑惑が提起された。

以後、朴義士の兄のジョンシク氏が日本に渡り、金子氏の遺体を引き取り、一
族の墓のある聞慶邑八霊里に安置した。朴義士の家でも金子氏の存在を認めた
わけだ。

日本で生まれて日本で死んだ日本人が韓国に埋葬されことになった背景には、
朝鮮の男を愛し、日本帝国主義に反対した履歴があったのだ。

朴烈義士記念事業会は、2003年11月麻城面の朴烈義士の生家後方に金子氏の墓
を移葬し、今日に至っている。

金子氏の政治的同志である朴烈義士は、聞慶で生まれて京城高等普通学校師範
科に入学し、1919年3.1運動に加担しもした。その年に東京に渡って活動し始
めた彼は、朝鮮人留学生たちと共にアナーキズム運動を展開する一方、親日派
に対するテロ活動も展開し、朝鮮戦争の時北に拉致され、北朝鮮で在北平和統
一促進協会長を務めた後1974年1月17日に死亡した。

日本の立教大の教授だった山田昭次は、2003年国内で発刊された「金子フミコ
: 植民地朝鮮を愛した日本帝国のアナーキスト」(山のように刊)で、死因が明
確にされていない金子氏の一生を描いた。

山田は、不幸だった人生で、金子氏が植民地朝鮮人の苦痛を自分の境遇のよう
に理解するようになり、「大日本帝国国民」であったにもかかわらず、そこに
編入されることもない自分の人生を嘆かず、むしろ人間としての自分を発見で
きる契機になったと診断している。

こういう金子氏の短いが劇的な人生は、1972年日本で一代記を描いた「余白の
春」が出版された後、日本で研究会まで結成されるほど新たに浮上している。

金子氏に関心を持っている日本人たちは、続けて聞慶を訪問してとり、金子氏
の故郷の山梨県の学習推進センターの会員で構成された文人14名は、3日聞慶
を訪問した。

彼らは、金子氏の墓地を参拝し、朴烈義士記念館建設事業への支援の意思を明
らかにしもした。

聞慶市オム・ウォンシク学芸研究士は、「日本の立場で見ると、反逆者である
もある金子氏を追慕する日本人がいるという点は、注目に値する」と話した。