萩原朔太郎
虚無の歌
我れは何物も喪失せず
また一切を失ひ尽せり。 「氷島」
午後の三時。広漠とした広間(ホール)の中で、私はひとり麦酒(ビール)を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへもない。暖炉(ストーブ)は明るく燃え、扉(ドア)の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の数々。
エビス橋の側(そば)に近く、此所の侘しいビヤホールに来て、私は何を待つてゐるのだらう? 恋人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街々を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麦酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。
かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの体熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスへの切ない祈?。そして、、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶だつた。かつて私は、肉体のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖、不断にそれの解体を強ひるところの、無機物に対して抗争しながら、悲壮に悩んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉体! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍(ひきがへる)とが、地下で私を待つてゐるのだ。
ホールの庭には桐の木が生え、落ち葉が地面に散らばつて居た。その板塀で囲まれた庭の彼方、倉庫の並ぶ空地の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い声が、夢のやうに聞こえてくる。広いがらんとした広間(ホール)の隅で、小鳥が時々囀つて居た。エビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の数々。
ああ神よ! もう取返す術(すべ)もない。私は一切を失ひ尽した。けれどもただ、ああ何といふ楽しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私か生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信じしめよ。私の空洞(うつろ)な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒(ビール)を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ!
坂を登らんとして乾きに耐えず
蹌踉として酔月の扉(どあ)を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電気の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂白の悔を知らむ。
女等群りて卓を囲み
我れの酔態を見て憫(あわれ)みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
残りなく銭(ぜに)を数へて盗み去れり。
≪乃木坂倶楽部≫
十二月また来れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寝台(べつと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり。
いかなれば追はるる如く
歳暮の忙しき街を憂ひ迷ひて
昼もなほ酒場の椅子に酔はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また来れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉(どあ)を叩(の)つくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく暖炉もなく
白亜の荒漠たる洋室の中
我れひとり寝台(べつと)に醒めて
白昼(ひる)もなほ熊の如くに眠れるなり。
註 ()内の読みは原文ではルビ