1922年10月17日。大杉栄、野枝宛書簡「……風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、……きのう、江口の家の家主の婆さんが来て、家賃を払ってくれないから何とか話してくれと言って、いつまでもくどくどやる上にオイオイ泣き出すんで閉口した。……今、和田久が警察へ呼ばれて行っての話に、野枝さんが途中で引返したということだが、どうしたんだろうと言っていたそうだ。まいたのか。……」

江口の家の留守番をしていたのは中浜哲古田大次郎、江口渙と中浜たちは交友があった。以下は『日本アナキズム運動人名事典』執筆項目より

http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/eguchi-giten.html
「21年、鵠沼に移り当時逗子に住んでいた大杉栄と交流、独特の人間的魅力に引きつけられる。借家争議の応援を労働運動社に依頼し、村木源次郎から中浜鉄と古田大二郎を紹介され居候させる。」この争議が大杉の手紙にある「家主の婆さん」の件。そして江口渙は二人から活動に誘われる。
中浜たちから英国皇太子の暗殺計画があったこと、摂政宮の暗殺計画を持っていることを打ち明けられ、グループに誘われるが文学の仕事を理由に断わる。彼らの行為を書き残す事、財政援助は約束する。9月、少女小説作家北川千代と別れ、11月に那須温泉に行き、旅館小松屋で静養と執筆、左翼恋愛小説「恋と牢獄」を書き上げる。」

その後「ギロチン社を結成した中浜は1月と5月に江口渙を訪問、活動資金の援助を依頼する。江口渙は有島武郎への紹介状を書き、中浜たちは有島から援助を受ける。有島は間もなく心中する。2月始め労働運動社の和田久太郎も療養に訪れ、江口渙の世話で三ヶ月余り滞在、浅草から療養に来ていた堀口直江と恋愛、後に江口渙は二人の出会いの経緯を書く。8月に江口渙は引き上げ、9月に那須郡烏山町屋敷町の父の家で相馬孝と結婚。」