古田大次郎「獄中手記」1925年4月10日<「人は果して完全に誓を守る事が出来るか。自分にはそれは出来ない。」

■「自分は、自分のやつた事が決つして一番正しい事だとは信じない。」
4.10 自分は運命を乗り切る事が出来なかった
■「啄木のいゝ歌が見つかつた。
東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」4.10
■自分は今美はしい自然に接すると堪へがたい生の執着を覚えるが、さうでない時には、大して生きたいとも思はない。又自分の死を極くロマンチツクに考へた時と、自分の生の醜態を悲しく思つた時などには、死の喜びさへ湧いて来る。.4.10
■全く僕の心には悪魔が宿つてゐるのだらうか、心の醜悪な事は自分ながら怖ろしい。.
有島武郎氏は私財を抛つて社会運動を助けた。武者小路実篤氏は自分の信念を忠実に実行して新しき村を建設した。自分が彼らの位置にあつたら果して然う出来ただらうか? 疑はしいものである。まして、有島氏のやうに愛のために、喜んで自ら死ぬ事が、どうして自分なぞに出来ようか。4.10
■自分は自ら告白する如く、空想児にちがひないが、しかし決して、空想に溺れはしない。.4.10
■僕は駄弁家ではないが、駄文家である事は自分でも認める。
■自分は人間の力の及ばない或る大きな力とか、天命、天運なぞを信じない。自分が先に運命と言つたのは、数度の『偶然』の集合を意味するものなのだ。4.10
■「僕は自分の無学な事が非常に残念に思はれてならない。恥しい話だが、僕はなるだけ他人に自分の無学を隠して来た。.
大学の予科時代、.差入れの本に接しても、も一つ感ずる事がある。.4.10
■「愛! その善悪を論じたくない。自分は、自分が間違つてゐると信ずる愛にでも、讃美の情を惜しみたくない。崇高な愛の心の前には、善悪正邪がどれ位の値打があらう。それらは木ツ端のやうに軽い、味のないものではあるまいか。眞理さへ、愛の前では光を失ひ易い。4.10
■「自分の心が他人に通じた時はうれしいが、他人が誤つて自分を知つてくれた時は苦しい。苦しいと共に何となく怖ろしい。近頃痛切にそれを思ふ。4.10