市ヶ谷刑務所跡地、刑死者慰霊の碑、都営青山霊園「一種ロ16号16側9番甲」の「古田氏の墓」を訪れる。霊園事務所側の歩道を通り、霊園内信号機のある交差点を越え最初の案内板で右に曲がる。表示から三つめの墓所。墓石の裏には「昭和53年 古田浩」と刻まれている。

参考 <『東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔について』森長栄三郎発行、より抜粋>

≪鍛冶橋監獄署、東京監獄沿革≫「警視庁監獄署は元鍛冶橋内監倉事務取扱所と称し、八重州町に在り…1870年12月の創設……1874年12月、竣工、称して鍛冶橋監獄……1903年3月、警視庁官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は司法大臣の管理、警視庁第四部直轄たりし鍛冶橋監獄も独立して東京監獄と改称、これより先1901年4月、牛込区富久町113番地に19000坪弱の地に未決監仮建築の工を起こす、1904年3月31日、建坪2700坪、303房に区画、1903年6月25日、鍛冶橋より移転、東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑執行をするようになったのは、ややおくれ1905年5月からのようである。それまでは死刑囚は鍛冶橋監獄署に収容し執行は東京監獄の東並びに隣接する市ヶ谷台町の市ヶ谷監獄の刑場で行なわれた。……1922年10月13日、監獄官制改正で東京監獄は市ヶ谷刑務所と呼ばれ……震災で被害を受けたが1926年には復旧完成……1937年5月25日、池袋駅近くの東京拘置所が落成するとともに市ヶ谷刑務所はなくなった。……ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことである。幸徳秋水らが東京監獄から発信したものをみると「市ヶ谷富久町113」になっている。しかし、刑場跡の一帯は富久町66番地であったという。1950年から刑場跡余丁町88番地の一隅と言うことになった。おそらく東京監獄ができる前の町名番地が復活したものであろう。1949年頃、刑場跡の場所が富久児童遊園となった。……