新聞報道<後藤謙太郎の死> ★2月2日書込み

東京日日新聞 1925年大正14年1月28日

写真 主義者の母の涙

■獄死した後藤謙二郎<註 原文のママ>の死因に不審をいだいた労働運動社同人及び実母ふじ等の要求により雑司が谷巣鴨刑務所に埋葬したのを廿七日午前八時二十分発掘した、労働運動社の武田、布留川、実母ふじ、実姉隅田ちと、布施、山崎両弁護士及び巣鴨刑務所の菊楽看守長、その他警官多数立合ったが六尺深さの墓穴から荒い白木の棺が掘りだされると実母は変りはてた伜の様子にワッと泣き出した、なお死体は直に慶大病院に運び解剖に付した。

東京日日新聞 1.25

主義者後藤獄中で縊死 鉄窓に細紐を掛けて 奇しき縁身元引受人は村木

■軍隊に不穏運動をした廉で昨年七月懲役一年に処せられ巣鴨刑務所に服役中の本郷区駒込片町一五労働運動社後藤謙四郎<註 原文のママ>(三一)は去る廿日午後十一時

 看守の隙をうかがい獄窓の鉄格子に自己の細紐をかけ縊死を計っているを間もなく看守が発見大騒ぎとなりすぐに監獄医が手当を加えたが遂に絶命した、刑務所で後藤の身元引受け人は丁度市ヶ谷刑務所に収容されていた当時重病で廿四日死亡した村木源次郎なので刑務所では村木には知らせず廿一日夜染井の巣鴨刑務所墓地に仮埋葬に付したが後藤の死んだ日は恰も同士の大先輩故

 幸徳秋水の十三周年忌であったので同士は感慨を深うしている<註 幸徳秋水の処刑日は24日>

村木の枕頭に母親泣く山崎布施両氏が死因調査一方熊本にいる母親に急報したので母親は廿四日午前着京労働運動社に来たり折から責付出獄し臨終の村木の枕頭に右の趣きを涙ながらに報告したので並みいる同士の面々も大いに 驚き、直ちに江川古川氏等は母親と同伴巣鴨刑務所に至り委細を聞くと細紐で縊死した旨典獄から報告があったのでとにかく一応引とったがその発表によると後藤の死んだ当日いつもの通り食事をとり運動もしていて別に死を急ぐ理由もないらしいのでそのまま引きとり同士に報告したが 死因にまた疑わしい点もあるので廿五日午前十時同士と山崎布施弁護士等は巣鴨刑務所に出頭死因を確める筈である

 廿日の夜確かに自殺

 佐藤所長の談

 後藤の自殺について佐藤巣鴨刑務所長は『何しろ夜分にはそんな話しはこまるが本人は廿日に自殺した事は事実である死骸は未だ引取りに来ない併して且は所轄署の検視も済んでいるし適法の処置をとっているので何といっても抗争の必要はないくわしい事は更に聞きたければ検事局の方にお願いしたいものだ』と語った

 全国を放浪した民衆詩人

 後藤は熊本の生れで若くして沖縄をはじめ全国各地を漂浪し主として北海道、台湾、沖縄等で主義の宣伝をしていたもので左傾的民衆詩人として同士の間でも有名であった


大阪毎日新聞

1.26

彼は淋し過ぎた 刑務所にも失態はある葬儀は村木と一しょに 後藤の死を語る布施弁護士

巣鴨刑務所で自殺した民衆歌人後藤謙二郎の死因に不審を抱いた労働運動社の岩佐、古川両氏および実母ふじ布施、山崎両弁護士は廿五日午後三時巣鴨刑務所に佐藤典獄を訪い種々詰問した結果について布施氏は語る

 自殺であることは認められるがそれには七月九日入獄以来一度も面会を許されず、彼の出した数通の手紙もにぎりつぶされた有様、来信の如きも一つも彼の手に渡らなかったようで、獄中にある後藤の淋しかったことは想像外であったらしい。そんなところに原因があると思う。宛名のない遺書が一通あったがそれは書物の中へ書いたもので郷里の母に関することが認めてあった。刑務所はそれによって郷里熊本の母へ打電したと云っているが後藤君は万一の場合は労働運動社か私の所へ通知するように届けているのにこの手続きを取らなかったのは刑務所の失態である。将来もあることだし十分警告を与えて来た。廿六日刑務所から遺骸を受取って労働運動社に持帰えり村木源次郎君と一緒に葬儀を営む積もりである(東京発)

東京日日新聞

1.26

きょう後藤の遺骸を引取る

 既報巣鴨刑務所で縊死した民衆歌人後藤謙二郎の死因に不審をいだいた労働運動社の岩佐、古川両氏及び実母ふじ、布施、山崎両弁護士は廿五日午後三時巣鴨刑務所に佐藤典獄を訪うた結果自殺は刑務所で外部との文通等を全く絶つのを苦悩した為で死語の手続きに間違いがあったまでだと判明したので遺骸は廿六日午後七時仮埋葬にしてある雑司ヶ谷墓地で引取る事と決定した

1.26

村木の告別式

後藤の死体引取

市ヶ谷刑務所から危篤のまま責付出獄して駒込片町労働運動社で死亡した村木源次郎の告別式は廿六日午前十一時半から同社で行われた堺枯占川以下同志五十余名参列、岩田某の「村木の病後の消息」と題する悲痛な告別の辞があって一時式をとじ四時半日暮里火葬場で荼毘に付した

 なお巣鴨刑務所に入獄中縊死をとげた後藤謙太郎の死体は廿六日午後一時半から布施山崎両弁護士馬島ドクトル実母等雑司ヶ谷墓地に出頭して引取った